第4回日本伝道会議

第4回日本伝道会議・上

2000年6月27日(火)〜30日(金)、沖縄県ぎのわん宜野湾市(那覇市のすぐ北)にある沖縄コンベンション・センターを会場に、第4回日本伝道会議が開催されました(日本福音同盟(JEA)を基盤として構成された実行委員会が主催)。

この会議には、諸外国からの招待客も含め、日本全国から約2300人のクリスチャンが参加しました。日本長老教会からは約45人が参加したそうで、当教会は牧師・牧師夫人・足立長老・高成田長老・小町執事の5名を派遣しました。

各参加者からの報告は「プロイオン」に掲載されるかと思いますので、ここでは雑感にとどめます。(最近の教会行事の報告は、ほとんどこのパターンが多いので、私は雑感を書くだけ、と楽をさせていただいています。)

この会議への参加の形態(ツアーのパターン)はいろいろあり、前日、あるいは当日早い便で沖縄に行くか、帰りを1日延ばすかして、オプショナル・ツアー(観光地巡りというより、沖縄戦の戦跡巡り)に参加できるコースもありました。長老教会の若い先生たちはそうした方々が多かったようです。

私たちは、1年前の申込み時点でそこまで頭が回りませんでしたので、ふつうに当日の昼の便で沖縄に行き、そのまますぐバスで会場に連れて行かれました。

午後3時から受付が開始され、登録を済ませてしまうと、暑い日差しの中、夜6時半からの集会まで何もすることがありません。

会場近くにホテルもありましたが、そこに泊まれる参加者はごくわずかで、大多数は那覇市内のホテルから片道数十分かけて、朝と晩にバスで往復することになります。

いったんホテルに行くわけにもいきませんので、展示会場に出店(出展?)しているあれこれのキリスト教団体のブースを見て回っていますと、早速、さまざまななつかしい方々とお会いしました。(有賀寿・英子先生ご夫妻もすぐ書房のブースを設けておられました。)

国内であれ、国外であれ、こうした会議の恵みの一つは、会議の内容以前に、さまざまな主にある同労者たちに何年かぶりにお会いする、ことにあります。

皆それぞれに、決して経済的には楽ではないでしょうし、時に試練や迫害に遭われたりしているのでしょうが、日本の、アジアの、世界の各地で、地道に主のために働いておられる同労者(名前を知らず、前回も見かけた顔だ、という程度のすれ違いの出会いも含めて)とお会いして、お互いに前回から今回までどうにか主に仕え続けてこられたと確認できることが、ある意味で、このような大会に参加して受けることのできる最大の祝福です。

「やあ、久しぶり」「元気?」「またあとでゆっくり」とすれ違いざまに声をかけあって、その後、実際には、大人数の集団の中で会期中二度とお会いしないことの方が多いのですが、それでも励ましになります。

午後6時半、3階までいっぱいになった大ホールで開会礼拝がスタート。JEA理事長の開会説教の後、プログラム委員会から会議全体のテーマとプログラムの意味することについて基調講演、そして「沖縄の夕べ」。

会議のテーマは「21世紀の日本を担う教会の伝道―和解の福音を共に生きる―」です。

このテーマでこの会議を沖縄で開催するにあたっては、実行委員会側と沖縄の諸教会との間で、長く難しい接触と交渉がありました。

沖縄は、歴史上いつも、日本本土によって都合の良いように利用されてきました。今回の会議も沖縄の教会を無視して、ただ本土から大挙押しかけて勝手に開催する、という風にならないように、話し合いを重ね、結果として、沖縄の教会が犠牲を払い、準備を重ね、快く私たちを迎え入れて、歓迎のプログラム「沖縄の夕べ」を用意してくださいました。

第4回日本伝道会議・中

6月27日(火)〜30日(金)、沖縄で行われた第4回日本伝道会議。第1日目の夜、最後のプログラムは「沖縄の夕べ」でした。

これは、沖縄の教会が心を込めて用意してくださったもので、お客を歓迎する伝統的な琉球音楽や舞踏、そしてそれらをキリスト教式に昇華させたものなど、楽しい一時でした。

国際会議では、その土地の伝統的芸能をキリスト教的に用いての音楽や舞踏がしばしば披露されますが、パフォーマンスの苦手な国内の会議でこのようなプログラムがもたれたのは、初めてかもしれません。

沖縄側の司会者の「本土から赴任される(教職者の)先生方は、こういうこと(踊り)ができないと沖縄では勤まりませんよ」とのコメントが笑いを誘っていました。

夜10時過ぎ、バスで那覇市内に戻って、ようやくホテルにチェック・インして初日が終了。

第2日目。午前中は大ホールでの全体集会。

会議の基調ともなる聖書講解1を、シカゴにあるトリニティ国際大学学長のグレゴリー・ウェイブライト博士が担当。「伝道会議のためにイエスが祈られるとしたら」と題して、ヨハネ17:20〜26から説教。

この聖書講解は、最終日の午前にも、その2「なぜ伝道しなければならないのか」として第2コリント5:9〜6:2から語られました。

こうした大会議での聖書講解説教を担当なさる先生は大変です。牧師が日頃自分の奉仕する教会の礼拝でなじみの信徒たちに対してしているような、一個所を針で突つくような細かい話をするわけにはいきません。当たり前の聖書箇所から当たり前の話を堂々と語り、しかも大向こうをうならせるような、立ち姿もりり凛々しい、霊的な二枚目ぶりを見せなければ(聞かせなければ)ならないからです。

休憩の後、「沖縄に聞く」。昨日の「沖縄の夕べ」とは打って変わって、沖縄の重く、辛い現代史を、自ら沖縄の地上戦で家族を失い、集団自決の当事者ともなられた先生がたが、本土からの来会者たちに噛んで含めるようにして語ってくださいました。

この日の昼食は、大ホールの向かいにある展示会場を利用して、外国からの招待客を歓迎する意味でのレセプション形式で開催。

午後は9会場に分かれて、9つのシンポジウム。この9つのテーマのシンポジウムが土台となって、それをさらに細分化する形で翌日36の分科会が行なわれて、会議のテーマを深化・具体化していく、というのが、会議全体のプログラムの意図するところです。

私は、このシンポジウムのうち「ともに生きる社会を目指す教会の伝道」というシンポジウムで4人の発題者の一人として20分の発題をするのが、この会議での唯一の責任でしたので、この時まで緊張していましたが、何とか無事に終えて、ようやく一安心。

それぞれ別のシンポジウムに出た足立長老と家内との3人で、近くのホテルのレストランで夕食をとりながら(今回の会議での食事は、朝食はホテルで、昼食はお弁当を、そして夕食は各自どこででもかってに、というスタイル)、「そういえば高成田長老には朝別れたきり会っていないけれど、どうしているのかなあ」といった話をし、夜、再び大ホールに戻って、夜の「宣教・共生の夕べ」の幕が開いたら、ビックリ。ステージ上にズラリ並んだ聖歌隊の中に高成田長老の姿が(そして小町執事の姿も)見えるではありませんか。

この聖歌隊は、会場で参加者有志を募って結成された聖歌隊で、夕方の空き時間に練習をする、とアナウンスされていましたから、その聖歌隊の中に知り合いがいてもおかしくはないのですが…。

その晩は、かつて1950年代にエクアドルのジャングルで殉教した宣教師の夫人、エリザベス・エリオットさんの奨励が中心でした。

第4回日本伝道会議・下

6月27日(火)〜30日(金)、沖縄で行われた第4回日本伝道会議。第2日目・夜の「宣教・共生の夕べ」の主講師は、エリザベス・エリオットさんでした。

かつて1950年代に、エクアドルのジャングルに入ってアウカ族に伝道しようとした宣教師5人が殺された、という衝撃的なニュースが全世界を駆け巡ったことがありました。

私も子供の頃、教会図書で『ジャングルの5人の殉教者』という大判・写真集スタイルの本を見た記憶があります。その後、その宣教師たちの未亡人の一人エリザベスさんが再度ジャングルに入って聖書翻訳を続け、ついにアウカ族の人々が回心し、お互いに主にあって深い和解を経験しました。

その憎しみ・恐怖・和解の体験を淡々と語るエリザベスさんのお話は、和解をテーマにした今回の伝道会議にふさわしいものでした。

翌日の第3日目は、午前中いっぱい36の分科会。前日の9つのシンポジウムをさらに深化・具体化するための分科会で、私は当然JEA(日本福音同盟)援助協力委員として「飢餓に苦しむ人々とともに生きる」に出席。

大会議も、このくらいの分科会に細分化されると、小人数のごく親しい感じの話し合いになります。

とはいえ、この分科会は昼を待たずして中座させていただいて、家内と一緒に会場を後にして、自主プログラム。市バスで南部戦跡を回りました(月報「プロイオン7月号」を参照)。

夕方、汗だくになってホテルに戻り、家内がお土産物屋をのぞいているあいだ、私はプールでひと泳ぎ。牧師が留守中の教会では、ちょっとした出来事があって役員の方々が事後処理に数日間腐心しておられたというのに、帰れないのをいいことにちょっとのんびりさせていただきました。

夜は、ホテルまで迎えに来てくださったTY姉の案内で那覇の街に出て、途中から合流したご主人・TT兄と一緒に四人で夕食。

Tさんご夫妻を覚えておられるでしょうか。夫人(Hご夫妻のご親戚)はJALのスチュワーデスさんで、独身時代の1996年3月から母教会(T教会)に出席できない時に当教会に出席してくださり、結婚してからは、ご夫妻で出席。1998年暮れにご主人の故郷沖縄に転居なさって、現在はT兄のお父様が牧師をしておられる那覇K教会に出席中で、Y姉はこの秋出産予定です。

そのご夫妻と久しぶりにお会いし、近況をうかがいつつ楽しい一時を過ごしました。

一方そのころ会場では、午後の特別セミナーに続いて、夜は大ホールで「宣教・派遣の夕べ」という、おもに若い世代に焦点を絞った大会が行われ、小坂忠さんの特別讃美の後、OMF総主事・牧野直之先生が講演し、ユーモアを交え、自分のことに触れながら「日本の教会がいつまでも60歳以上の者たちにリーダーシップをとらせるようではいけない。若者たちがどんどん交代して責任を担っていって欲しい」と訴えていました(訴えていたそうです)。

翌日そのことをだれかから聞き、「あの牧野さんがもう60歳近くなるのか」と、かつて若き日HiBAスタッフであった牧野さんから17歳の高校生だった私が人生に深い影響を受けたことを思い出しながら、同じように人生に深い感化を与えられる若者たちが次々と起こされて欲しい、と祈らされたことでした。

その最終日は、ウェイブライト師により再び聖書講演があり、そして会議をまとめる「沖縄宣言」(またいつか紹介します)が朗読され、会議の参加者全員により採択の祈りがささげられて、閉会礼拝となりました。

参加者の多くは、会議終了後そのまま専用バスで空港に向かい、午後の便で日本の各地に散りましたが、私はJEA年次総会出席のため、もう1日沖縄に滞在しました。