わたしの名を呼ぶ声

本文

あなたを形造った方、主はこう仰せられる。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。   わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたはわたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。 ・・ わたしが、あなたの神、主、・・あなたの 救い主であるからだ。・・わたしの目には、 あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛 している。   イザヤ書四三・一〜四

老紳士

その老紳士が私たちの教会にふらっとおいでになったのは、もう六、七年前でしょ うか(老紳士と呼ぶにはいささかくだけた格好をしていましたが)。

「自分は病気で、あと一、二年だろう。近くのキリスト教会に出席しておなじみさ んとなり、いずれはその教会の牧師さんにキリスト教式で葬式をあげてもらおうと思 っている」といったことを口にしておられました。

唐突に変なことを言う人だなあと思いましたが、断片的にお話をうかがうと、特に おかしなわけでもありません。

母親がクリスチャン(カトリック信徒)であって、自分も幼い日に幼児洗礼を受け た。戦争中、地方に疎開した時は都会育ちの自分だけが半ズボンのかわいらしい格好 をしていたのでいじめにあった。大人になってからは長い間好き勝手なことをして教 会と無縁の生活を送っていたが、何年か前に家内が突然亡くなった。その時は見知っ た教会がなかったので心ならずも他宗教式で葬式をあげなければならなかった。自分 のときはやはりキリスト教式でやりたい・・・。

数週続けて礼拝に出席したかと思うと、しばらく姿が見えなくなり、そうかと思う とクリスマスの頃には「教会の子どもたちへのプレゼントだ」と言って近所のコンビ ニからどさっとお菓子を届けさせる。近くの病院に入院しているということでお見舞 にいくと、ベッドの上で競馬新聞とにらめっこをしている。看護婦さんたちにうかが うと「どこが悪いというより、ホテル代わりに泊まっているようなものよ」。

そんなことがしばらく続きました。そのうちに、西船橋の家を引き払って、東京西 部の郊外に住んでおられたお嬢さんのお宅に同居するようになったらしく、「当分そ こに滞在中」との連絡が入り、そうかと思うと、漂泊の思いやまずといった感じで、 教会の近くでカプセルホテル暮らしを続けたり、ふらっとまた礼拝に顔を出したりし ておられました。

風のような人生

だんだんとわかって来たのは、若い頃から競馬が大好きで(というより馬を見てい るのが好きで)、競馬のシーズンになるといても立ってもいられず、私たちの教会の 周辺に出没なさるらしい、ということでした。

私たちの教会のある駅は、大きな競馬場に近いことで有名です。日曜には、駅や道 路の周辺は競馬場に向かう人や車であふれます。

毎年クリスマス礼拝の日は、一年で一番大きなレースの日と重なっていますし、競 馬場に飾られるクリスマス・ツリーの見事さといったら、クリスチャンにしてからが そのツリーを見物に行くとようやくクリスマス気分が盛り上がってくる、といった具 合です。

「教会の前の国道にお賽銭箱ならぬ献金箱を置いておいたら、みんな競馬場に行く 前に幸運を祈り、帰りには当り馬券を手にした人が多額の献金をしていくんじゃない だろうか」「競馬の幸運お祈りいたします、と看板を出そうか。これこそが地元のニ ーズに答える伝道じゃないか」と本気とも冗談ともなく教会の青年たちが語り合った りします(もちろん、冗談です)。

船橋市内にはもう一つ、地方競馬もあります。その老紳士は、競馬のシーズンにな ると、あちこちに泊まりながらこの二つの競馬場を回って歩き、私たちの教会にも顔 をお見せになるのでした。

そんなことが一、二年続いたある日、お嬢様から突然電話をいただきました。「父 が脳溢血で倒れ、危篤です、以前から葬儀のことは〇〇牧師に頼んであると申してお りましたので・・。」

何回かお見舞にうかがい、数週間後、天に召されてから、お住まいの近くの教会の 会堂をお借りして、葬儀を行ないました。

その葬儀に前後して何回となくお子様がたからお父さんの思い出話をうかがいまし た。子どもの頃から馬が好きで、若い頃はイギリスのダービーまでも馬を見に行っ た。競馬新聞を発行し、その世界では知らない者のいないような存在で、一生涯趣味 を生活の糧とするような自由な生き方をしてきた、母が突然亡くなってから、自分な りに人生のまとめ方を考えていたらしい。そんなお話の合間に見せていただいた数少 ない遺品(常にバッグに入れて持ち歩いていた)の中に、ビニールの袋に入れたオレ ンジ色のポケット版ヨハネの福音書分冊、同じくポケット版の教理問答書、そして祈 祷書の三冊がありました。

「棺の中に」と言われるご遺族に、「せっかくお父様が生涯大切にしておられたも のですから、お手元において時折ご覧になってください。時々はお近くの教会にもお 出かけください」とお勧めして、お別れしました。

名前が呼ばれる

その時から数年経ちました。今でも時折、ひょうひょうと天に帰られた老紳士のこ とを思い出します。不思議に見事な人生の閉じ方でした。人生の晩年にいたって、幼 き日から自分の名を呼んでくださっておられた神の御声を鮮やかに聞き取られたので しょう。

老紳士の場合には、幼き日のお母様の面影とあいまって、造り主なる神の呼び声を 聞き取る下地があったのでしょうが、そのような経験がない場合でも同じことでしょ う。

救い主イエス・キリストの十字架の死をもって人の罪を贖ってくださった神は、私 たち一人一人の名を呼び、この福音にあずかるようにと招いておられます。

心を静め、耳をすませば、人生の年齢に関わりなく、自分の名前を呼んでくださる 神の御声を聴くことができるでしょう。聖書を通し、教会の礼拝を通し、自然界の沈 黙の語りかけを通し、そして友人との出会いや人生のさりげない経験を通して、さら に時には苦難を通しても、神は呼びかけておられます。

「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザヤ四三・一)。ど うか、この神の静かな御声を聞き取られますように。

『百万人の福音』いのちのことば社,1996年7月