教会設立30周年記念礼拝

「光のうちに光を見る」キリスト教朝顔教会 協力牧師 井出定治先生

主よ。あなたの恵みは天にあり、
あなたの真実は雲にまで及びます。
あなたの義は高くそびえる山のようで、
あなたのさばきは深い海のようです。
あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
神よ。あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。
人の子らは御翼の影に身を避けます。
彼らはあなたの家の豊かさを
心ゆくまで飲むでしょう。
あなたの楽しみの流れを、
あなたは彼らに飲ませなさいます。
いのちの泉はあなたにあり、
私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
(詩篇36章5節〜9節)

おはようございます。30周年の記念伝道礼拝にお招きいただき、主のみ前にともに礼拝を捧げることが出来ることを感謝いたします。

詩篇36編9節のみ言葉「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」は旧約聖書の中の最も素晴らしいみことばの一つと言われています。「いのちの泉」とは神様ご自身のこと、「あなたの光」とはその神様のみ言葉あるいは真理を指している、と理解することが出来ます。 私たちは自分の力でものを見ているように感じますが、光があって初めてものを見ることが出来ます。ですから、「光のうちに光を見る」ということは、自然界においても、また、私たちの生活の中でもいろいろな面で言えるのではないかと思います。

しばらく前に、ある方が、「人はなぜ道に迷うのか」という本を出されました。私たちはよく道に迷います。動物よりも迷いやすい。そういう方向感覚のメカニズムを取り上げた本で、この人によると道に迷うのは頭の中で勝手に地図を作ってしまって、それが方向に対する錯覚を生むのだというのです。このため、思っても見ないところに出たときに頭が真っ白になる、つまり、「思い込み」こそが迷いの原因であり、そして思い込みが強いほど現状から抜け出すのが難しくなる、というのです。

この本を呼んで、私たち人間の生涯も似たところがあるな、と感じました。

聖書には「はじめに神が天と地を創造された」とあります。創造されたという言葉は、愛情をもって作られたというニュアンスを持つといわれています。世界を創り私たちを創ってくださった神様の支えと導きがあるからこそ、私たちはこの神の光の中で、その恵みの中で、自分自身の人生の目的を知ることが出来るのです。「何のためにこの地上に生まれたのか」、「何で自分のようなものが存在しているのか」と悩んだ時に、私たちは創ってくださった神様のもとに行って聞くことが出来るのです。あるいは何も出来ない状況で、私には存在の価値はないのかと懐疑的になるとき、神のもとに行って、自ら生きている意味を尋ね知ることができます。この神、その光の中でこそ、私たちは生きていくことができる訳です。これを聖書は一番最初の言葉で「はじめに神は天と地を創られた」と言っている訳です。

「母親と中学生の対話」というのがある雑誌に書いてありました。「勉強しないとあの高校に入れないよ。いい大学入り、いい会社に就職するためには必要よ。」という母親に対し、中学生の息子が「なぜ、いい高校、いい大学、いい会社に行かなければならないの」と尋ねると、「いい会社なら出世して、重役になって、最後は立派な葬式が出せますよ。」と言ったという笑い話ですが、でも実際に皆さんは「僕、何のために生きているの、生きている価値があるの」と尋ねられたときに、本当に何のためかということを指し示すことができる親でしょうか。多くの人はそういったことが分からないまま、目の先のことで子供たちを追い立てているのではないでしょうか。まさに意味が不明のまま、目的が不明のままで生活が営まれていて、創世記1章の言葉には全く関心のないままで、「神無し」と思い込み、あるいは思い込まされて、またある人たちは、神でないものを神と思い込んでしまっていることが多いのです。

新聞に出ていたタレントと哲学者の会話の中で、タレントのこんな話がありました。「このごろ毎日毎日、旅をする私ですが、本当の私自身はどこに旅をしているのでしょうか。まだ私を待っている未知のものがあるとしてそれに出会うためにはどこへ旅したらいいのでしょうか」と。満たされている中で、豊かさの中で、方向が分からず迷っている人が多いのです。大人も同じです。最近の世情を見ても分かるように、テレビを見ても猫も杓子も謝ってばかりいる。政治家が、役人が、警察が、銀行が、病院がみんな頭を下げている、こんな国があるでしょうか。こういったことの奥にあるのは何なのでしょうか。「神なき個人主義」ではないでしょうか。この36編の2節を見ると、「自分の目に自分を偽っているから自分の悪を認めることもそれを憎むことも出来ない。(共同訳)」とあります。

自分がどこに立つか分かっていない、小さい頃からの思い込みをあたりまえのように思っていますから、方向が分からない、意味が分からないまま、みんな泥まみれになっているのが、今日の多くの人たちの姿ではないでしょうか。しかし、私たちはそういう闇の中に投げ出されているだけなのでようか。そうではありません。ダビデは歌っているのです。5節に「主よ、あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます」と。神さまの慈しみの大きさを歌っています。同時に7節で、「神よ、あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます」と。親鳥が雛を翼で囲うように、神は私たちを一人一人今も守っていてくれるのだと詩人は歌っている。そういう意味では私たちは永遠なる神様の大きな愛のうちに置かれている、ということにしっかりと気付くことが大切なのです。

女優の岸田今日子さんの話を聞いたことがあります。小さい頃登校拒否になっていたときに、夏休み明けに学校に行き、何にも書いていない絵日記を先生に出した時、先生が「あなたは書ききれないほど素晴らしいことがあったのね、二重丸をあげましょう」といわれ、私のようなものをこの先生は受け入れていてくれる、ということが分かり、明日から頑張ろうという気持ちになったというのです。

神様は混乱の中に置かれている私たちにご自分の愛を明らかにしてくださいました。これがキリストの出来事であります、十字架の出来事でありますよね。ですから、新約聖書のロマ書では、「私たちがまだ罪人であったときに、神はイエス・キリストが十字架にかかってくださったことによって神は私たちに愛を明らかにしてくださった」というのです。この愛の光のうちに立ってはじめて、私たちは自分のようなものが愛されているということ、生かされているということ、罪が赦されているということ、また、私のようなものにも希望があるのいだということ、それを本当に知ることが出来る、これが「光のうちに光を見る」ということなのです『思い込み』から、神の真実の愛に目線を転換したいものです。

昔話ですが、戦争中私は海軍の特攻隊の一人でした。敗戦も色濃くなると、最初は志願であった特攻隊も命令でした。訓練に必要な燃料もあまり無いので、毎日ぶらぶら過ごしていたのですが、ある日、教官が気象学の復習を始めたのです。まもなく教官は「どうせ死ぬのだから勉強なんてやめよう」と言いました。私はその時に人生の深淵を覗いたという気がしました。特攻隊員としていつでも死ぬ覚悟はしていたつもりでしたが、そう言われて初めて気が付いたことは、死というものを突き抜けた向こうに本当の希望と言うものが無いなら人間のやっていることは何とむなしいことか、ということです。とうとう昭和20年7月に敵が目前に迫って、いよいよ出撃と言う時に先陣を志願して出撃準備に入った矢先に、日本の偵察機が米軍の船団を見失い待機命令が下り、そのうち敗戦を迎え、命拾いしたのです。命は助かりましたが私には宿題が残りました。死というものをなお超えてその向こうにどういう希望を私たちは持つことができるのか。

そんなときに東京の焼け跡で英国人のおばあさんの宣教師に出会い、キリストへの信仰に導かれ、さらに献身へと導かれました。このキリストにつながる時に初めて私のようなものの人生でも意味があるのだ、ということに気付かされたのです。それ以来今日まで感謝することはあっても、悔いることはありません。キリストの愛という光の中に立つとき私たちは初めて死を貫いた向こうに復活を望むことができる。キリストのうちにある命の泉が自分を本当に生かしてくれるんだ、という喜びを生きることが出来る。光のうちに光を見るものとされるということはそういうことです。

ですから、もう一つ注目していただきたいのは、ダビデは自分が否定的な要素に囲まれているときでも「主のあなたの恵みは天にありと」となお神に向かって声を出している。迷ったままで「神無き個人主義」に人々がからめ取られている時に、断固としてそういう主義に決別するという信仰が現れている。私たちに求められているのそういうことじゃないでしょうか。

神無き状態という恐ろしい状況が広まっている中で、「神よ、主よ、あなたは私の光です、命の泉です」とみことばをもって教えてくださいます。また、この信仰を子供たちに伝えていかない限り、「殺すなかれ」という教えを子供たちに残していくことは出来ないのではないかと思います。

はじめに紹介した本の中では、迷わないためには、まず立ち止まって自分の位置を確認することが大事である、とありました。自分の人生の中でも同様です。もし、間違っていることが分かったらためらわずに元に戻ることだ。あたりまえのことですが、山登りで迷ったら躊躇しないで元に戻ることです。詩篇119編60に「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」とあります。もう1ヶ所、エレミヤ哀歌の3章40〜41節に「私たちの道を尋ね調べて、主の道に立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」とあります。心から光としてこられたキリストを信頼し自分の生活の中の第一の事柄としてしっかりと迎えていただきたいと思います。このことを土台に据えることがこれからの日本のためにも大切です。

お祈りをしましょう。「生ける父なる御神様。記念すべきこの30周年の伝道礼拝に卑しいものを引き出して頂き、ともにみことばを開く機会が与えられてありがとうございます。主よ、まことに罪深い思い込みのために私たちは道を失い、自らの力だけを頼りにし、この世の様々な誘惑や欲望に引きずられ、その渦に中にうごめいているような状況のものですけれども、あなたはその私たちに今も救いの手を伸ばして、立ち返ることを呼びかけてくださいますからありがとうございます。主よ、どうぞ、求道中のかたがいらっしゃるならば自らの道を省みてためらわずに主の下に立ち返り、主とともに主のみことばに照らされて、励まされて生きるものとならしめてくださいますようにお願いいたします。多くの主にある兄弟姉妹方のゆえに心から感謝を致します。どうぞ、これから40周年、50周年と教会が形作られていく中で、主よ、あなたの光を輝かせ、あなたのみ言葉を押し広げていくことができる、そのような群れとして豊かにおたてあげくださり、お一人お一人を大きな愛のうちに祝してくださいますように心からお願いを致します。感謝して委ねて、尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。

記念感謝集会メッセージ 「朝顔教会の形成」 井出定治先生

私は朝顔教会に来る前、30年近く埼玉県の蕨福音自由教会の牧師でした。朝顔教会では羽鳥順二先生の後任として招かれました。朝顔教会は、戦後、米国の宣教師が隣の永福町で開拓伝道をしたのが始まりです。朝顔教会は、朝顔作りをしていた人の種を干す小屋を借りて開拓伝道をしたのが始まりです。伝道集会をやるのにポスターを貼ったり、マイクを使うのに交番に届ける必要があって、交番で教会の名前を聞かれた時に、まだ教会の名前がなかったので「あの朝顔園でやっているのですが」と言ったら、「じゃあ、朝顔教会にしておきましょう」ということで朝顔教会になったらしいのです。実は、宗教法人の申請をしたときに「朝顔教会では宗派が分からないから駄目だ」といわれたのですが、とっさに「キリスト教朝顔教会ならどうですか」といったら認められたといわれています。

私は4代目として赴任しまして、今年で朝顔教会も50周年を迎えました。50周年と一口に言いますが、宣教師によって開拓されたということは感謝ではあるのですが、同時に問題もあるわけです。私が行った時に人数は多かったし、宣教師によるhi-b.a.の働きもあり、元気もあったのですが、若干無秩序なところもあり、宣教師が開拓し、牧会してきた教会の問題点もありました。

どこが一番の問題点かと言うと、何でも宣教師に依存する依存体質が強いということです。例えば伝道集会を開いても、最後まで個人伝道をするのは牧師だけで、みんな牧師に任せて帰ってしまっている、新しく来た魂と交わってフォローをするわけでもない。そういうことが目に付いてきた。これだけの人が集まっているのだから、教会員がもう少し組織的に活動できるように、また何でも牧師に依存するような体質を変えていかなければ、教会がしっかり根付くことが出来ないと感じました。

それで教会の中でまず始めたのが「訓練会」というものでした。今は「学び会」と言ってます。ここで教会員が聖書の中から学び、それによって意識を変えていく、ということを考えたのです。毎週日曜日の午後、持ちました。まさにあらゆることを学びました。旧新約聖書のこと、結婚・葬儀のこと、異端の問題、音楽のことなど専門の先生も呼んだりもしました。教会の壮年の方々には牧師が急用で留守の時など、ワンポイント・メッセージができるように説教の勉強もしてもらいました。やってみると皆さん驚くほど上手なんですよ。それぞれに賜物が与えられているから、そういうものを喜んで捧げてもらうようにならなければと、感じました。今でも、学び会は続いています。そのことによって、クリスチャンとは何なのか、教会が行う海外宣教とはどういうことなのか、そういうことを皆学ぶようになりました。

聖書を学んでいくうちに、耳学問でなく、聖書から確信を得ていきますからとてもいい協力が出来るようになります。例えば教会の総会は、意見が違うと、あとに尾を引いてしまう危険があります。総会が終わっても「あの時に私の意見に反対したから」などといって、相互の関係が気まずくなり、教会のなかで一致がないということになってしまったら、何のために教会が働きを進めていくのか分からなくなります。けれども、総会というものが教会員が心を一つにし、思いを一つにし、理解を一つにして、最初から新しい年度に計画に参加して、新しい決断と献身をするのが教会の総会というものなんですよね。それが分かるとお互いが自由にものを言えるようになるし、後には引かないし、一つ心になって奉仕することが出来るのです。学びにより教会が一つになることが出来るのです。

また、牧師や宣教師に依存するのではなく、自分たちが牧師のお手伝いするのでなく、皆が伝道や奉仕の主体であるという意識をもつと、牧師が言わなくても積極的に協力し合ってやっていくようになるという気運が生まれたことは感謝でした。

私は3年程前に機会があってドイツに行き、マルチン・ルターの足跡をたどりながら考えたことは、カソリックとの論争があったライプチッヒで、ルターは苦戦し、より一層自分の身が危険になったその時に、彼が強調しているのが「万人祭司」ということなのです。法王一人が偉いのではない、信じたもの一人一人が祭司であると言っている。ルターは、クリスチャン一人一人が神から任命された働き人であることをはっきりと命がけで主張しようとしたのだな、ということをドイツを旅しながら改めて感じました。

私も新しい世紀、21世紀に教会が本当の意味で日本という国に根を下ろすために大切なことはどこの教会にも残っているような依存体質から抜け出て、一人一人が主の民の、あるいは伝道と牧会の主体者として自覚し奉仕していかなければならないと感じ、そのことをどう教会が推し進めていくことが出来るかによって、21世紀の教会はずいぶん変わっていくのではないか、そのことをうまくやらないと今のような時代の流れ中で足を掬われる危険性はより大きくなると考えさせられます。

皆さんの教会は日本人の中で、日本人の祈りの中で生まれた教会が持っている素晴らしさを恵みの一つとしてしっかりと覚えてくだされば幸いではないかと考えております。

雁の群れはリーダーを先頭にして飛びますが、リーダーが疲れると次の鳥が代わるそうです。また、V字型で飛ぶことで、あとの鳥は気流に乗って7分くらいの力で飛ぶことができるそうですし、弱って群れから離れる鳥がいると必ずそれに付き添う鳥が出てくるそうです。お互いが重荷を負いあってキリストの律法を全うしなさいとガラテヤ書は教えています。雁でさえ、そのように一つの群れとなって一つの目標に向かって進んでいくことが出来るならば、われわれもまた主によって選ばれたものですから、一人一人が賜物を生かしながら主の働きが期待されていることを確信して一緒に飛んでいくことを考えなくてはならないのではないでしょうか。