子どもたちと礼拝

西船橋教会の親子礼拝について

私たちの教会は、ご存じのように大人から子どもまで親子一緒に主日礼拝をささげて います。これは、単に会堂が狭いからというような理由からではなく、きちんとした神 学的理解に基づくものです。

教会にはいつも新しいかたが加わってくださいますし、また古くからの青年会員も結 婚し親となって初めて、以前は意識しなかったこの原則に思いいたることでしょうから 、この原則は、定期的に繰り返し確認しておく必要があります。

幸い、何年か前、主日礼拝で「マタイの福音書」連続講解説教を行なっている時、1 9章13〜15節のテキストに関連して、この話題を扱ったことがあります。この説教 は、その前週のマタイ19章1〜12節の説教とカップルにして「キリスト者の家庭生 活。A.結婚・夫婦、B.子供・礼拝」という形でテープにし、数本ダビングして、貸 し出し用に備えてあります。

以下に、その説教を文章化することをもって、当教会の親子礼拝の指針とさせていた だきます。

説教「子どもたちを来させなさい」

(1987年8月30日、主日礼拝説教)

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た 。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさ い。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのもので ある。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。 マタイ19:13〜15

目次

1、親子一緒の礼拝
(1)西船橋教会の礼拝
(2)個人的な証し
2、旧約以来の伝統
(1)礼拝の中で育つ子どもたち
(2)礼拝から切り離された子どもたち
3、実際的な注意
(1)親と子と一緒に座る
(2)音の出るものを避ける
(3)しゃべらせない工夫
(4)日曜に備える
(5)説教を分からせる?
結び

19章前半で結婚と離婚の問題を扱ったマタイは、次に当然のこととして、子どもた ちのことを扱います。

人々が子どもを主イエスのもとに祝福を求めて連れて来ました。それを弟子たちが叱 ります。単に弟子たちが意地悪であったとか、子ども嫌いであったとかいうことではな いでしょう。大勢の人が押し寄せて来ていて、子どもには危険であったからかも知れま せん。イエスが疲れておられるのを心配したのか、あるいは、大切なお話をなさってお られるところであったので静かにさせたかったのか、いろいろな理由が考えられます。

しかし、そうした人間的には当然と思えるような配慮を主イエスは退けて、子どもた ちを来させ、「天の国はこのような者たちのものである」と、マタイ18:1〜5でお 語りになったことをもう一度繰り返され、子どもたちを祝福されました。

今朝は、いつもの説教とは大幅に形が変わります。この箇所の講解説教というわけで はなく、この箇所などに基づいて、私たちの教会が行なっている「親子一緒の礼拝」に ついて共に考えていくことにいたします。

1、親子一緒の礼拝

(1)西船橋教会の礼拝

私たちの教会は長老派教会ですから、幼児洗礼を授けます。それだけでなく、新しく 当教会においでくださったかたがすぐお気付きになるように、通常の教会では日曜学校 の一環として行なわれている子どものための礼拝を行なわずに、分級だけを行ないます 。(通常の教会では、子どもたちは日曜学校の礼拝と分級に出た後、近隣の子どもたち はそのまま帰り、クリスチャン・ホームの子どもは、親が礼拝に出ている間、教会内の 空き部屋で遊んでいます。)

その代わり、大人から子どもまで全員で礼拝を行ない、その人数を赤ん坊にいたるま できちんと週報に報告します。

これは場所が狭いというようなことからではなく、きちんとした理由に基づいてのこ とです。新しいかたがたには、その都度ことばで説明させていただくのですが、文章と してまとまっていませんので、次々と新しいかたが加わってくださいますと、対応しき れず、そこらへんがあいまいになる可能性があります。5月に行なわれた教会一泊修養 会(1987年、富津サマリヤセンターにて)の話し合いでも、親子礼拝を考え直した らどうか、母子室が欲しい、子どもが礼拝中うるさい等、親子礼拝を当然のこととして も改善の余地ありとの意見が割合多くありました。

改善の可能性を常に検討することは当然としても、親子礼拝を行なっていることにつ いては、常に教会全体が一致した同じレベルの理解に立つ必要があります。

私たちの教会は、大人と子どもで礼拝を分けるということをある時期から意識的にし てきませんでしたし、今後ともしません。将来、牧師の交代の時期が来たとしましても 、新しく招聘する牧師の条件の一つは、この礼拝スタイルに充分な理解を示し、それを 積極的に継続していく人であるということです。

あるいは、将来、会堂を建て、母子室を設けたとしましても、それは授乳のため、ま た新しく来たばかりで礼拝に慣れないかたのための一時的な避難所としてだけ用いられ るべきものです。

そもそも、「日曜10時半からの大人の礼拝に子どもたちも参加させているのだ」と 考えることをやめましょう。そうした考えだと、子どもが邪魔だなあ、ということにな ります。

私たちの教会は「子どものための礼拝」をしていないのと同様、「大人のための礼拝 」もしていません。

教会が主日(日曜)に公の礼拝を行なうとき、それは、求道者、新来者から教会員ま で、また大人から赤ん坊まで、ともかくその教会に連なる全員が出席して初めて礼拝と 言えるのです。(そればかりか日曜礼拝には、先に召され今は天におられるかたがたも 共に出席しています。讃美歌543番の「天(あま)つ御民(みたみ)も地にある者も ・・」という頌栄はそのことを歌っています。だからこそ日曜礼拝は、公同の礼拝です 。)

日曜礼拝が行なわれている時、会堂内で礼拝中でない場所があってもなりませんし、 礼拝していない人がいてもなりません。大人のための礼拝に子どもが出ているのでもな く、子どものための礼拝に大人が出るのでもなく、礼拝はその民全員のためのものです 。それが、旧約から新約、そしてキリスト教会の歴史を通して、教会にとっても礼拝と いうものでした。

(このように考えると、当教会が日曜朝8時半から行なっている早朝礼拝のことも多 少問題になるかも知れませんが、早朝礼拝は正式の牧師が司式もし、説教も祝祷も行な う礼拝ですし、早朝礼拝に出席なさったかたがその後の礼拝の時間に教会内のどこかし らで休んでいるわけでもありませんから、夕礼拝を行なう場合と同じように、さまざま な事情のある教会員のための配慮と考えることができるでしょう。)

(2)個人的な証し

少し個人的なことをお話します。私は小学校6年生の秋に教会(日曜学校)に行くよ うになり、中学生になる直前に初めて「大人の」礼拝に出ました。(その教会では中学 生から大人の礼拝に出させる方針でしたから。)その時の身動きならないような緊張感 については、以前お話しました。中学時代の2年間、父の仕事の関係で静岡の方に引っ 越した時に出ていた教会では、中学生は中学科だけに出れば良く、大人の礼拝には呼ば れませんでした。とても寂しい気がしていました。

結婚し、子どもができてからは(当時、伝道者ではありましたが、牧師ではありませ んでしたので、説教奉仕がない時は一信徒として礼拝に出席し)、クリスチャン・ホー ムの子どもは親と一緒に礼拝に出るべきだと考え、そういう方針の教会ではありません でしたが、我が家は率先して家族で礼拝に出席しました。子どもが三歳になった頃から は日曜学校にも出させたのですが、そうしますと、クリスチャン・ホームの子は、日曜 学校の礼拝でお話を聞く、献金をする(けれどもその礼拝にはかんじんの祝祷はない、 牧師の説教もない)、そして大人の礼拝でも(出るからにはきちんとさせたいので)ま た献金をする、そのうえ、子どもは日曜午前9時頃から12時過ぎまでびっちり拘束さ れることになり、ぐったり疲れてしまう・・・。

どこかおかしいのではないかと切実に思っている頃に、前牧師・有賀寿先生の指導の もとでの西船橋教会の実践のことをうかがい、また本を通し、本来教会の礼拝とは、1 8世紀末の日曜学校制度の出現まで、大人から子どもまで家族全員のためのものであっ たと知りました。「初代教会以来、中世・近世を通して、子どもはいつも、礼拝に出て いました」(有賀寿『家庭礼拝の教え』すぐ書房、82ページ)。

2、旧約以来の伝統

(1)礼拝の中で育つ子どもたち

確かに聖書を見ますと、礼拝と子どもの関係はあまり教えられていません。旧約にお ける礼拝は犠牲をささげる礼拝でしたが、その旧約においても新約においても、その後 のキリスト教会の歴史においても、児童ということはあまり意識されていません。わず かに今日の聖書箇所あたりが、児童を礼拝者の中から切り離してはならないことを教え るだけです。

しかし聖書の沈黙は、子どもたちが排除されていたことではなく、逆に、信仰共同体 というものは、家族単位で成り立っていること、子どもたちは強力な共同体意識の中に 包みこまれていたこと、を示しています。

子どもたちは生まれた時から、意味が分かろうと分かるまいと信仰者たちの中で育っ ていったのです。前牧師がよくお用いになった例ですが、宗教改革時代の絵を見ると、 教会の礼拝で説教者が一生懸命説教をしている、会衆は涙を流しながらそのみことばに 聞きいっている、その足元を子どもたちや犬がたわむれている、そういう形で教会の礼 拝は行なわれてきたのです(『家庭礼拝の教え』82ページ)。

(2)礼拝から切り離された子どもたち

18世紀以降、社会構造の変化や近代教育学の発達、伝道地における社会的少数者集 団としての教会の出現(したがって家族持ちでない一代目クリスチャンとしての青少年 信徒の増加)などといった理由からでしょうが、意味の分からない場所に子どもたちを いさせてもしょうがない、ということで、意味の分かる(子どもにも内容を理解しても らえる)日曜学校の礼拝がスタートしました。(子どもたちに対する教会の教育は、旧 約の時代から行なわれていました。日曜学校における子ども向け「礼拝」がスタートし たことが新しいことです。)

その結果、子どもたちは、洗礼式や聖餐式を目撃することもなく(いつの日か自分も 礼典にあずかりたい、あのパンとぶどう酒を口にしたいとあこがれることもなく)、正 式に立てられたみことばの役者(えきしゃ)である牧師の説教を聞くこともなく、祝祷 によって一週間の生活に派遣されることもなく育ち、信仰の継承は重大な危機に直面し ました。「子どもに必要なのは、神の臨在に触れる経験です。大人がどのようにしてそ れを経験するかを礼拝で目撃した子どもたちだけが、いつか同じ経験を自ら求める者に なります。実際、礼拝は、子どもと神との出会いの場になります」(『家庭礼拝の教え 』85ページ)。子どもたちを礼拝から去らせてはならないのです。

3、実際的な注意

しかし、このことは現実問題として、礼拝中に子どもたちを騒がせておいても良いと いうことではありません。

前牧師は、私の誤解でなければ、前述の絵の例に合わせて、よくこんなことを言って おられました、「旧約時代の礼拝は、犠牲をささげる礼拝ですから、ほふられる羊や牛 の泣き声、阿鼻叫喚の中で礼拝が進められました。初代教会の礼拝でも常に子どもたち がいました。宗教改革の頃にも(前述の)絵のごとき状況です。礼拝が静かに進められ なければならないと思うのは、アジア的悪しき静寂主義の影響です」と。

これは、もちろん「たとえうるさくても、親子は一緒に礼拝に出るべきなのです」と 強調したいための先生お得意のショック療法的な誇張表現で、「もちろん、親は子ども に、静かにしていることを教えるべきです」と続きます(『家庭礼拝』の教え82ペー ジ)。

確かに子どもたちが存在するということは、いないことに比べれば、存在自体がさま ざまなざわめきを生み出します。まったくの静寂というわけにはいきません。それは覚 悟しなければならないことです。けれども、だからといって、騒がせておいて良いこと にはなりません。

子どもと共に礼拝を守る教会は、欧米のキリスト教会の伝統の中で培(つちか)われ てきた、子連れ礼拝のマナーを覚えておく必要があります。

(1)親と子と一緒に座る

第一に、原則として子どもたちだけでまとめて座らせない、できるかぎり両親は自分 の子どもたちを自分たちの間に挟んで(サンドイッチ型で)座らせるということです。 子どもたちだけでまとめて座らせておいて「話してはいけません。騒いではいけません 」というのは、ケーキを目の前に出しておいて「食べてはいけません」と言うに等しい 、気の毒な誘惑です。

もちろん例外はあります。まことに身勝手な話で恐縮ですが、この点、牧師家庭はあ まり良い手本にはなりません。牧師家庭の父親(牧師)は礼拝中つねに一番前で仕事を しています。小さな日本の教会は家内制手工業ですから、母親(牧師夫人)もまた前に 出て奏楽をしているか、玄関で受付をしたり、むずかるよその子をあずかったりしてい ます。その結果、牧師家庭の子どもたちは、礼拝に関するかぎり、親のいない状態で会 堂の隅の椅子に子どもたちだけで座るしかなくなります。

また片親だけで子どもを連れていらっしゃる場合も多いでしょうし、近所の子どもが 自分だけで出席する場合もあるでしょう。事情により、礼拝中くらい子どもをあずかっ てもらって自分は静かに礼拝を守りたいと思われるかたもいらっしゃるでしょう。種々 の同情すべきケースがあります。

そのうえ伝統的な礼拝用長椅子ではなく個別の椅子を使っている教会の場合は、親子 が横一列に座るのはなかなか難しいという事情もあります。さらに、礼拝堂から教会の 外に出やすく、しかも教会のすぐ前が公園であるといったような場合は、子どもがむず かって礼拝出席者に迷惑をかけそうな時、一時的に避難する教会内の他の部屋に行くよ りは、つい外に出てしまいますので、むずかると外に連れて行ってもらえることを覚え た子どもは、外に行きたさに翌週もまたむずかるという悪循環が待ち受けています。そ うした場合、礼拝が終わるまで静かに礼拝室内にいるという習慣は身に付けさせにくい でしょう。

とはいえ、言い訳は限りないものです。クリスチャン・ホームは、礼拝中の子どもの しつけは親の責任だと心得ましょう。

(もちろんこのことだけを強調したら、子育て中の若い親は出席しづらくなるでしょ うから、親に一方的に責任を負わせるのではなく、子どもたちは教会全体の配慮の中に 置かれている、ということを前提にした上でのことです。)

(2)音の出るものを避ける

第二は、音の出るもの(金属製玩具やガラガラ等)を持たせない、がさがさする紙や ビニール等を避ける、ということです。

教会の伝統の中で、親は、子どもに見せる絵本も布(ネル)で作る等の努力をしてき たそうです。(あとで触れますが、小さい子どもに説教は分かりません。絵本を見なが らでもその場にいるだけでいいのです。)最近では、既製品でも種々の布製の絵本を見 かけるようになりました。

カトリック教会では、鈴の音は特別に意味のある警鐘だそうで、会衆席で鈴を鳴らす ことは厳禁だそうです。この点では、大人も財布やバッグの根付け(飾り物)等に気を 付ける必要があります。

(3)しゃべらせない工夫

第三に、しゃべらせない工夫をすることです。よく言われることですが、親は、牧師 の説教(だいたい3区分になっている)の1区分ごとに子どもの口にあめだまを入れた そうです(今の時代は、虫歯のことがまず心配になりますが)。要するに口をふさいで しゃべらせないようにする工夫です。子どものおしゃべりに「静かにしなさい」とこと ばで返しては、ざわめきが倍加するだけです。目や身振りでおしゃべりを制止すること が大切です。

(4)日曜に備える

第四に、ある意味で最も大切なことは、終日の準備です。 土曜の夜遅くまで子どもを連れ回していて日曜に静かにというのは無理です。土曜の 夜は、早めにゆっくりと休ませ、心身共にさわやかに日曜を迎えさせること、また平日 に毎日の祈りの中で「日曜の礼拝に○○ちゃんが静かに出席できるように、また少しず つ神様のお話が理解できるように、力を与えてください」と親子で祈り合うこと、こう した積み重ねが大切です。 結局、家庭での礼拝生活が、日曜の礼拝出席を整えていくためのかぎとなります。

とはいえ、どんなに工夫しても子どもは子どもです。大人と同じようになれというこ とはできません。子どもや若い両親が礼拝出席に関し萎縮してしまうことがないように 、教会全体は子どもの存在を温かく認めなければなりません。「子どもたちを来させな さい」とのみことばは、若い親たちには、萎縮することなく「うちの子どもも一人のか けがえのない魂として礼拝に出る権利がある。うるさかろうが何だろうが礼拝にはいつ も連れて行くぞ」との決意を持たせ(けれども静かにさせようとの努力は重ねてくださ いネ)、周囲に対しては、自分も自分の子も子どもだった時があることを思い出させて 、忍耐と祈りをもって若い両親を背後から支えていくべきことを教えます。

(以上の4つのポイントは、日本基督改革派・東京恩寵教会月報(1985年10月 号)に掲載された榊原康夫牧師の文章を参考にさせていただきました。)

(5)説教を分からせる?

最後に、礼拝の中心ともいえる説教を分からせるということについてですが、私たち の教会では、子どもを礼拝に出席させる教会の多くが行なっているような「子供向けの 説教」といった配慮を行なっていません。(別にエラそうに言うことではないのですが 。)

小さいうちは説教は分からなくていいのです。少し大きくなったら、讃美歌と聖書を 持ち、礼拝の節目・節目のプログラムには(立ったり、座ったり、讃美歌や聖書を開い たり、献金したり)参加させますが、説教中は他のことをしていてかまわないのです。

大人だって、初めてのかたや求道中のかたには説教は分かりません。また教会員でも (説教が連続講解である場合、難しい箇所もいやでも扱いますから、その箇所が自分の 生活や状況に特に関係がない場合)分からないことがしばしばです。(と、これまた自 分の説教の下手さを棚に上げてエラそうに言えることではないのですが。)

大切なのは、教会は神の国の大使館であり、礼拝はその中心であることです。つまり 、全能・遍在の神は、世界のどこにでもおられますが、その神が特に教会という場所を 決め、また主日礼拝という時間を決めて、私たちに親しく会ってくださると約束してお られるのです。

ですから、この世で最も神のご臨在を感じとれる場所と時間に自分もいる、子どもも いさせるということが重要なのです。(このことは、子どもだけではなく、大人にとっ てもそうです。時として礼拝と説教のあれこれが分からなくても、「そこにいる」こと 自体に意味があるのです。)

小学校後半から中学校にかけての子どもたちは、説教の中心部分が分かってくるよう に、説教者も、家庭も、教会も努力しなければなりません。しかし、それ以下の子ども たちは、礼拝にいればいいのです。

分からない所にいさせてもしょうがない、分からないことを覚えさせてもしょうがな い、子どもたちがその場で「分かった」と言って納得してくれるようなことを教えなけ れば意味がない、というのは、学問の世界ではその通りでしょう。けれども、道徳や情 緒、宗教の世界に関しては誤った教育論です。

母親は、生まれたばかりの子どもを抱きながら「きれいな花だね」「きれいな夕焼け だね」と話しかけます。赤ちゃんにそんなことは知的には分かりません。けれどもそれ によって美とは何か、母親とのコミュニケーションとは何か、が子どもの心に染み込み ます。

結び

礼拝は「式」です。式は、それ自体が、分かっても分からなくてもそこにいることを 求めるものです。いることによって子どもの心に、からだに、神の存在を染み込ませる 、刷り込ませるのです。十戒を覚えさせ、主の祈りを覚えさせ、使徒信条を覚えこませ る。日曜学校を通してバイブル・ストーリーを覚えこませる、そして日曜の朝は礼拝に 出るのだ、それ以外の生き方は考えられないと染み込ませるのです(申命記6:1〜2 5)。そうしていればこそ「将来、あなたの子が『我々の神、主が命じられたこれらの 定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるとき」(申命記6:20)が来ます。信仰告 白に導かれる日が来ます。

礼拝から(主イエスが私たちを祝福し、救いの恵みをこの世のあらゆる場所・あらゆ る時にまさって最もはっきりと示してくださる礼拝から)子どもたちを去らせないよう にしましょう。

(若いかたがたの中には、将来結婚して他教会に出席なさるようになり、そこで親と なるかたもいらっしゃるでしょう。教会にはそれぞれ良かれと思うやり方があります。 それはそれで、その教会のやり方を重んじ、その指導に従うことが大切です。ただ、ご 自分の子どもたちは礼拝の場から切り離さず、親と共に礼拝生活を守りながら育てられ るようにお勧めします。)